第1回

「キリール文字と記号」

外国語学部ロシア語学科 准教授 秋山真一

 

 ロシア語はキリール文字という独特な文字を使って表記する、ということは上智の学生ならば知っている人が少なからずいるかもしれない。実際に一般外国語としてのロシア語の授業を履修している学生に、「なぜロシア語を学ぼうと思ったのか?」と尋ねると一定数の学生が「未知なる文字を読んでみたかった」ということを理由に挙げるので、「ロシア語=ローマン・アルファベット(いわゆるローマ字)を使わない言語」という認識はある程度普及しているようである。

 しかし、ロシア語で使用するキリール文字が全部で何文字あり、母音と子音を表す文字がそれぞれ何文字ずつあるか?と問われて即座に答えられる人はロシア語を学んだことのある人を除いてそうはいないだろう。正解は全部で33文字、うち、母音を表す文字は10文字で子音を表す文字は21文字である。ここで、「あ、そう。」などとスルーされるとちょっと具合が悪い。むしろツッコミが欲しいところだ。「おいおい、10+21=31であって、トータル33文字にならないじゃないか!」と。

 そうそう、それでこそ上智大生。いくら文系の学生が多い大学とはいっても、小学校レベルの足し算でごまかされたりはしないよ、と胸を張ってほしい。では、残りの2文字は何なのか?実は記号なのである。以下にロシア語のキリール文字によるアルファベットと、その翻字(transliteration)を付した表を挙げる。

 

【上段:便宜的につけた番号、中段:キリール文字(大文字/小文字)、下段:翻字】

☆紫地の文字:母音、橙地の文字:子音、無地の文字:記号

 

 翻字というのはキリール文字を読めない人に、おおよその音声のイメージを持ってもらうためにも役立つ体系である。(翻字のjはヤ行の子音であり、6番のЕ/еの翻字jeは「イェ」であって「ジェ」ではないので念のため。)キリール文字の翻字にはいくつかの体系があるが、ここに挙げたのは上智大学がかつて図書館で採用していた翻字体系で、ロシア語の書籍をローマン・アルファベット順にソートされたカードで探すときなどに使用されたものである。そして話を記号に戻すと、28番と30番がその2つの記号である。30番は軟音記号と呼ばれ、直前の子音を軟音(詳しい説明は省略)で発音しなさい、という意味の記号であり、目にする機会も多い。しかし28番は硬音記号と呼ばれるにも関わらず、直前の子音を硬音で発音しなさい、という意味の記号としての役割を現代ロシア語では担っておらず、かつ、この記号を目にする確率は他の32文字と比べて圧倒的に低い。現代ロシア語において28番の記号に与えられた役割は分離記号としての役割のみなのである。

 分離記号とは何か?日本語の例を出すのは邪道だが、判りやすさのためにご容赦いただきたい。例えば「音韻(おんいん)」という日本語をキリール文字で表記すると«онъин»(翻字だと“on''in”)となる。3文字目の硬音記号がないと«онин»(翻字だと“onin”)、つまり「おにん」となってしまい、「おんいん」と発音してもらえない。

この分離記号というシステムは大変優れたシステムで、筆者の名前は真一(しんいち)であるが、慣用の日本語五十音表のキリール文字転写法に則して«Синъити»と綴れば「しんいち」と発音してもらえる。ローマン・アルファベットで“Shinichi”と綴ると「しにち」になってしまい、英語母語話者に自己紹介するとき、“My first name is しんいち.”と言っても、“Oh, しにち~. Nice to meet you.” と展開して、やや残念な気持ちになるが、ロシア語母語話者ならば「しんいち」と(理論上)呼んでもらえるのである。(この際、筆者のやや長い«Синъити»という名前をロシア人が瞬時に記憶できるか否か、というのは別の問題である。)

 しかし、こう喜んでいられたのも束の間。別の問題が浮上する。ロシアの外務省が発行する筆者のロシアビザでは、氏名が«Шиничи Акияма»(翻字だと“Shinichi Akijama”)と綴られていたのだ。再び「しにち」の登場である。硬音記号«ъ»があるのに一体なぜ? ここからは筆者の想像だが、ロシア外務省にもキリール文字とローマン・アルファベットとの翻字法が存在する。その翻字法に則して筆者のパスポートに表記された名前、つまり、 “Shinichi”をそのまま翻字すると«Шиничи»が出来上がるのだ。(先に挙げた翻字法を下段から中段へと適用すればよい。)結局、日本語の「しんいち」はローマ字の“Shinichi”を経てキリール文字の«Шиничи»、つまり「しにち」へと帰着してしまうのである。

 ここで、「名前を2通りに表記できるなんて、キリール文字はやっぱり面白いじゃないか!」と思ったあなたはロシア語学習に向いた性格の持ち主である。ロシア語とは学習の際に、一見苦境に見える状況を楽しむ心のゆとりと柔軟な発想が不可欠な言語だからである。

(おわり)