第2回

「VとWの悲劇」

外国語学部ロシア語学科 准教授 秋山真一

 

♪ トロは中トロ コハダ アジ (ヘイ・ラッシャイ)

  アナゴ 甘エビ しめサバ スズキ (ヘイ・ラッシャイ)

  ホタテ アワビに 赤貝 ミル貝 (ヘイ・ラッシャイ)

  カツオ カンパチ ウニ イクラ

  ここのスシ屋は日本一

  スシ食いねェ スシ食いねェ スシ食いねェ!

  アガリ アガリ アガリ ガリ ガリ ガリ

 

 いきなりジェネレーション・ギャップ全開かもしれない。上記の歌詞はシブがき隊(布川敏和、本木雅弘、薬丸裕英の3名から成るジャニーズ・ユニット)が1986年にリリースしたシングル「スシ食いねェ!」の歌詞なのだ。

 さて、この歌詞の中にロシア語の単語が入っていると言われて気づく人はどのくらいいるだろう?

正解は「イクラ」だ。「イクラ」のどこがロシア語なのかと思われるかもしれないが、実は「イクラ」はロシア語でикра (翻字:ikra) と綴り、魚卵を意味する語なのだ。裏を返せば、魚卵はロシア語ですべてикраとなるので、日本語のイクラに該当する鮭の卵だけでなく、ニシンの卵である数の子もикраであり、世界三大珍味の1つであるキャビアもチョウザメの卵であるためикраとなる。

 つまり、「イクラ」はロシア語からの外来語でありながら、原語(=輸入元の言語)の語義とは少々異なる語義で用いられていることになる。しかし、外来語が原語と異なる語義で用いられる例は決して珍しくない。

 日露間の外来語に関しては「セイウチ」をめぐっても面白い例がある。日本語の「セイウチ」の語源を調べるとロシア語のсивуч (翻字:sivuch) が由来とされている。сивучの音をカタカナで表せば「シヴーチ」であり「セイウチ」にはやや遠いが納得できなくもない。では原語のロシア語でсивучが何を意味するかというと実はトドなのである。ロシア語でセイウチを意味する語はморж (翻字:morzh) であり、сивучとは全くの別語彙である。この原因は推測するしかないが、おそらく日本とロシアとの交流初期において「海に棲んでいて、群れで生活する茶色くて大きな生物を何と呼ぶか?」というような質問が日本人によってなされ、「ああ、それならсивуч(トド)だ。」とロシア人が答えたのだろう。それを聞いた日本人は当時名前をもたなかったセイウチに「セイウチ」という名前を与え、それが日本語に定着してしまったのだろう。それにしても、あのセイウチに特徴的な大きな牙がその場で議論の対象とならなかったことが不思議でならないが…。

 日本語からロシア語へともたらされた外来語ももちろん少なからず存在する。ここではвата (翻字:vata) を紹介しよう。ロシア語のватаの語義は綿(わた)、つまりコットンである。「え?何で “wata”が“vata”になっちゃうの?/w/と/v/は全然違う音じゃない!」と言われそうだが、音としての/w/と/v/とで混乱を引き起こす要因はいくつかある。古典期のラテン語では“U”という文字がまだ発明されていなかったために、“V” という文字で接近音(半母音)/w/も、母音/u/も表していた。ドイツ語では“w”の文字が/v/の音を、“v”の文字が/f/の音を表すことはご存知の方も多いだろう。ロシア語と同じ東スラヴ諸語に分類されるウクライナ語では、“в”という文字が書かれる位置によって子音/v/の音を表したり、接近音/w/や母音/u/の音を表したりする。そして何より、ロシア語には/w/の音素がないため、外来語の/w/の音はロシア語では“в” (翻字:v)を使って転写される。

 例:Вашингтон (翻字:Vashington)「ワシントンWashington《アメリカ合衆国の首都》」

 

 従って、日本語の50音表にある「わ」を、ロシア語に転写する場合には “ва”を用いるのが慣例となっている。こうして日本語の綿がロシア語のватаとして輸入されることになるのだが、この慣例をめぐって不愉快な思いをした生徒が私の教え子の中に1人いた。高校の第2外国語でロシア語を選択してくれた、貴重な人材だったのだが、彼の姓は若平(わかひら)であった。曰く、「僕の名字をキリール文字に直して、それを発音すると『ヴァカヒラ』(わかひら→Вакахира→Vakakhira)になるんですけど…。」

 これにクラスが大爆笑。私も思わず吹き出したが、本人はしばらくの間、不機嫌そうにしていた。こういう時に「/v/と/b/は全然違う音じゃない!」などという正論が何の役にも立たないのは、日本語に/v/という音素が歴史的に存在してこなかったことが原因だろう。何とも皮肉な話である。 

(おわり)