第1回

海馬に爪あと

 

総合人間科学部 心理学科 教授 岡田隆

 

 授業を受け終えて教室を出るとき、お腹がすいたなあ、ノートを取る手が疲れたなあ、と感じることはあっても、脳のこのあたりが変わったなあ、と思う人はまずいないだろう。自分の脳の様子を感じとる仕組みは無いのだからそれは当然なのだけど、教室で学んだ内容がのちに期末試験を受けたとき心に蘇ってきたならば、その情報は何らかの形で自分の脳に蓄えられていたと考えるのが自然である。なにかを記憶したときに脳がどう変化しうるのか、という記憶痕跡(エングラム)の問題は心理学者にとって長年の興味の対象であり、神経科学的手法を用いたここ数十年にわたる研究から、脳における記憶痕跡の実体について次のような候補が挙がっている。

 

 記憶痕跡の分野で最も精力的に研究されてきたのは、大脳の奥まったところにある海馬という部分でみられる長期増強という現象である。脳の情報処理をになう細胞はニューロンであり、あるニューロンから別のニューロンへの信号伝達部位をシナプスというが、すでに1940年代の終わりには、シナプスにおける信号伝達の効率変化が記憶痕跡ではないかというアイデアが提唱されていた。また、てんかん治療として海馬を左右とも切除する手術を受けた患者が手術後に著しい記憶障害を示したという1953年の有名な事例から、記憶にとって海馬が重要な役割を果たしていることが広く知られるようになった。海馬シナプスの「変わりうる性質」(シナプス可塑性)が記憶痕跡であると期待され、1973年には、海馬シナプスにおける信号伝達を一時的に強めるための実験操作を行うことにより、その後の信号伝達の程度が長期にわたり増強されたまま維持される長期増強が実験によって初めて示された。それ以降、長期増強が生じる細胞メカニズムや、長期増強と記憶成績との関係などが次々に調べられ、2006年には、人工的な操作を加えなくても動物が学習課題を行うこと自体で長期増強が引き起こされたという実験結果も報告された。覚え込もうとする際に日常場面で生じるどのような脳活動が長期増強を引き起こしうるかは明らかではないが、海馬における信号伝達のしやすさが長期的に変わったままになることが記憶貯蔵の実体である、という仮説に基づく研究が多くなされている。

 

 一方、長期増強のようなシナプスのレベルでの可塑性以外に、ニューロン自体が海馬の一部の領域(歯状回という部分)で新たに生まれ、元から存在する神経回路網に組み込まれうることが1990年代に広く知られるようになり、このニューロン新生も記憶痕跡の新たな候補として研究が盛んになってきた対象である。それまでは、大人の脳でニューロンが新しく作られているという考えはほとんど常識外のことだったが、新たに細胞分裂してできたニューロンを他の細胞から区別する技法の発展により、海馬歯状回がニューロン新生の生じる脳部位の一つとわかったのである。人工的にニューロン新生が抑制されたマウスでは長期増強の程度や空間学習成績がいずれも低下し、マウスの走行反応によってニューロン新生が促進された際にも記憶成績に影響が及ぼされる。ニューロン新生は年老いても生じることが確認されているが、若年齢のほうがその増え方は大きいようである。

 

 三つ目は、新たにここ数年で明らかになってきた記憶痕跡ニューロン群の考え方である。あることを覚え込むときに海馬ニューロンのある組合せが興奮したとして、再びその組合せで海馬ニューロンが興奮したときに記憶が想起される、というものである。動物が記憶を獲得する際に興奮していた海馬のニューロン群を、人工的にもう一度興奮させることによって、獲得された記憶が蘇ったかのような行動を示すことがマウスを用いた実験によって示された。遺伝子工学的な手法を用いると、興奮したニューロンにだけタンパク質による印がつくようにすることができ、ある特定の色の光がそのタンパク質に照射されるとそのタンパク質が埋まっているニューロンが興奮する、という光遺伝学の手法が使われた。この手法を応用することによって、不愉快な記憶が快適な記憶に変わったかのような行動をマウスが示した例もある。どういうものを記憶したときにどういう組合せのニューロン群が活動するのか、という対応関係を調べることは、かつては遠い夢のように思えたものだが、この光遺伝学の技術の出現によって実現に近づいたのではないかと期待している。

 

 以上の研究の大部分はマウスやラットなどの脳を用いた実験によるものなので、これらの記憶痕跡についての考えが人間にすべて当てはまるとは断言できないけれども、たとえばニューロン新生そのものは人間の脳にも生じうることが示されているし、また人間に近い霊長類動物を用いて示された記憶痕跡に関する知見も少なくない。脳における記憶痕跡として今回紹介した長期増強、ニューロン新生、記憶痕跡ニューロン群のことがもし皆さんの頭の隅に残ったら、いつか授業を終えて教室をあとにする時、この90分間の講義を聞くことで自分の脳を変えることができたかな、とイメージしてみてはどうだろう。こちらも、自分の講義を受けた皆さんの海馬に爪あとを残せるようにがんばろう。