第2回

当たり前の自分に99

 

総合人間科学部 心理学科 教授 岡田隆

 

周囲を見渡せば、能力や容姿や人づきあいといったさまざまな点で自分より優れている人たちであふれているように思えるかもしれない。あの人に比べたら私は50点ぐらいかなあなどと思って、その点数の開きに大きな壁を感じてしまうこともあろう。実際、学校や社会では人どうしの違いや競争の結果として他者に優劣の判定をされてしまうこともあるわけだから他人との違いを強調して考えるのも無理はないのだが、ちょっと見方を変えて、自分自身に当たり前のように備わっている能力に気づいてそれを高く評価してやることも大切だと思っている。

 

大学で学問を体系的に学ぶことの面白さをどこに見いだすかは人それぞれだけれども、その一つは、日常では当たり前だと思って通り過ぎてしまいそうなことでも、先人たちが考えてきたことや現代の研究者による最新の成果を学ぶことによって、それらが全然当たり前ではないことに気づかせてくれる点だろう。

 

当たり前にみえて実はそうでないものの一例を挙げると、たとえば、目の前のものが見える、というのは、べつに何の努力もしなくても目さえ開けば(真っ暗闇でない限り)外界の対象の形や輪郭や色や動きなどが見え、普通はそんなのは当たり前だと思うだろう。ところがよく考えてみると、私たちが視覚のもととして使える物理刺激は私たちに見えているその対象自体ではなく、眼球の奥にある網膜に映った光の二次元的な配置だけである。この網膜像を得た時点では形や輪郭といった概念もなければ、何が遠くにあって何が近くにあるかといった遠近の区別もない。私たちが直接使える外界情報(視覚の場合は網膜に映った光の配列)のことを心理学では「近刺激」といい、一方、実際に知覚していると思っている外界の対象のことを「遠刺激」という。知覚の本質は、この近刺激を材料とし自分の脳の情報処理機構を用いた結果として遠刺激を構成して認知することだといえる。視覚の近刺激を材料として用いて、輪郭や形の向きや動きを検出するような特徴抽出作業を脳の神経回路網が地道にやってくれた結果だけを、私たちは遠刺激の視知覚として体験しているわけである。視覚以外の知覚系でも事情は同様であって、直接は得ることのできない遠刺激を構成するために、自分の知らないところで、自分の脳による膨大な情報処理がなされている(そしてその過程自体は意識に上らない)。こうしたことの「当たり前で無さかげん」は、関連した学問領域を体系的にそれなりに長く学んで初めて実感できるものとなる。

 

そもそも知覚に限らず、こうして生きている自分に心があるということ自体、当たり前に感じる最たるものかもしれない。心といえば、古くから言われているような魂や動物精気といったイメージを抱く人もいるだろうし、心は心臓にありますと堂々と書いている現代の書物に出会ったりすることもあるが、実際には心というまとまった物質が身体の中のどこかにあるわけではない。私たちは一人あたり約60兆個の細胞が集まってできている「モノの集合」であり、さらに細かくみれば水素や酸素や窒素などというようなモノで組み上がっている存在という点で他の命を持たない物体と一見同じような特徴をもっている。ただし、世界に存在する無数の物体のなかで、人のかたちになったモノの集まりは自分の心を感じる特異な存在となる。20世紀の生理心理学者D. O. Hebbが、自身による心理学入門書の終章で「心を物質の活動と等視することはかならずしも心を低めることではなく、物質を高めることかもしれない」(白井常他訳)と述べていることから伺えるように、現時点ではどのような原理でモノが組み上がったら心という現象が生じうるのかはわからないものの、私たちが意識を持った存在であることは、モノの集まりの例としては当たり前のことではなく滅多に無いいわば異常事態であって、何ものにも代えがたい、かけがえのない貴重な状況なのだということになろう。それだけで一人一人がみな高得点に値する。

 

他の人と比べてすぐに目につくような違いで自分を低く見積もるのはやめて、人間としてこの世に現れて心を有する存在になっただけで自分は(他のみんなも)最初から99点もっているようなものだと考えてはどうだろう。本当は100点と言ってしまっても良いのかもしれないが、ちょっとは余地を残しておいた方が今後のやりがいがあるというものなのでやはり1点残しておくことにしようか。その部分を、一生かけて楽しみながら埋めていこう。