第2回

「啓蒙」思想の危機

 

国際教養学部 国際教養学科 教授 中野晃一

 

事前の大方の予想に反して、アメリカ大統領選挙で共和党のドナルド・トランプ候補が、勝利しました。もっとも、トランプは有権者の投じた得票数では民主党のヒラリー・クリントン候補に200万票以上も差を開けられたものと推計されており、選挙人団制度という独特の(そして必ずしも民主的とは言えない)選挙制度によって、勝ったにすぎませんから、実際の「勝因」は複雑な要因が絡んだものであり、現段階では詳細な分析のためのデータも充分とは言えません。

 

驚くべきことに、クリントンの得票数は単にトランプを大きく上回っただけでなく、アメリカ合衆国建国以来の大統領選挙でのすべての候補者の得票数と比較しても、彼女のより高い得票数を叩き出した候補はただ一人しかおらず、それはバラク・オバマ現大統領なのです。民主的な投票がそのまま結果を決めることになっていたならば、初の女性大統領になっていたはずのクリントンは、つまり過去のどの白人男性候補よりも有権者の支持を得たわけですから、これがミソジニー(女性嫌悪・差別)むきだしのトランプ勝利で終わってしまうというのは、まさに女性の権利の問題を考えると天国と地獄ほどの大きな差であり、今後の世界のあり方にも重大な帰結をもたらしかねない、歴史の大きな分かれ目と言わざるを得ません。

 

トランプはまた、アメリカ建国初めて、軍隊経験も含めて議員や州知事など公職についたことが一切ないまま大統領に当選したことになりますから、資質上の疑問は、ヘイトと差別的言辞をまきちらし、病的なまでの虚言癖や人品の欠落にとどまらず、世界最大の軍事超大国の核ボタンや国家機密を扱う権力者ということでも多大なものがあります。アメリカ大統領選挙での投票率も、日本の国政選挙同様、長期低迷傾向がつづきおよそ55%くらいですから、トランプがアメリカ国民の圧倒的な支持を受けているということではないにしても、だいたい4人に1人が何らかの理由でトランプに投票したということは、やはり危機的なことです。

 

このトランプ現象は、啓蒙思想すなわち近代以降の人類の歩みに対する挑戦であるという点で、私はヒトラーのナチスがドイツで政権掌握したときに匹敵する問題をはらんでいると思います。啓蒙とは、すなわち「蒙(無知)を啓く(ひらく)」ということです。日本の政治やメディア状況との関連でも、近年、反知性主義という言葉がしばしば使われるようになっていますが、根拠に一切もとづかないデマやウソで不安やヘイトをあおったトランプ現象が、イギリスにおける国民投票でのヨーロッパ連合離脱派の勝利につづいたことで、オックスフォード大学出版会の刊行する辞書が「今年の言葉」として、post-truth(ポスト真実)つまり「真実にとらわれなくなった事態」という言葉を選びました。

 

ひとつには、トランプやEU離脱派のばらまいた虚偽を見抜けないほどの知性しか持たない市民がここまで増えているということと、もうひとつには、デマやウソだと思っていても構わず、SNSでシェアしたり、トランプを支持したりする人がたくさんいるということですが、それをまたデマゴーグと呼ぶほかない政治家たちが、事実や知性に対するリスペクトなしで悪用しあおるという状況が現出してしまったわけです。

 

これは「知性の府」たる大学にとって、深刻な事態です。危機にある知性を支えるものがあるとしたら、それは勇気しかありません。あなたには、真実を知り、貫く勇気は備わっていますか。