第3回

「大学」の終焉?

 

国際教養学部 国際教養学科 教授 中野晃一

 

日本語で「大学」と言うと、単に小学校、中学校、高等学校、そして大学、とレベルが上に行くにつれて名称が「大きく」なっただけにも見えますが、collegeもしくはuniversityと英語でその語源を探ると、はるかに深い意味合いがあることがわかります。

 

例えば、世界最古の大学のひとつであるイギリスのオックスフォード大学つまりUniversity of Oxford30あまりのcollegeで構成されていますが、このcollegeのもっとも基礎的な形は、ちょうど「ロ」の字のように、図書館、礼拝堂、食堂、そして寮と言う4つの長方形の建物がそれぞれ正方形の辺を成し、真ん中に「四角形の中庭」を意味するquadがあるというものです。修道院などでよく見られる構図と同じなのは、むろん中世の欧州で、大学がキリスト教と深い関係のなか誕生したからですが、ともに学び(図書館)、ともに祈り(礼拝堂)、そして寝食をともにする(食堂と寮)学究たち(同じ寮に住む「同僚」つまりcolleague)が、時折中庭で出会っては挨拶や意見を交わす、という空間構成になっているわけです。

 

神とむきあい、真理の探求に勤しむ同僚(colleague)たちが大学(college)を形成し、ともに自らを律するために戴いた規則にのみ従って自由に研究と教育に専心する共同体として存立する。これがcol-leagueまたcol-legecoともに、leg立法する・選ぶ)の起源なのです。そして、こうしたcollegeが総合的に集まって形成するより大きな共同体が、ラテン語でuniversitas magistrorum et scholariumcommunity of masters and scholars「先生と学生の共同体」)、英語の universityというわけです。

 

ここでポイントなのは、本来の意味の大学が「学究たちの自治共同体」にあるということで、「大学の自治」と呼ばれるものの重要性はまさにここから来ているわけですし、上智大学の教育精神が、Men and Women for Others, With Othersというふうに、単にいわゆる社会貢献の意味でfor Others(他者のために)と言うだけでなく、With Others(他者とともに)と述べているのは、イエズス会という修道会が創立し、キリスト教精神をこんにちに受け継ぐ大学らしく、祈りや学びが共同性に根ざした形でしか可能でないことをよくわきまえているからだろうと私は解しています。

 

ところが現在、中世以来人類の叡智の源となってきた、この大学という組織形態が、歴史としてははるかに浅い企業モデルに取って代わられてしまう危機にあるのです。営利企業の組織モデルを持ち込み、学長の「リーダーシップ」の下、新自由主義的な「改革」をひっきりなしに標榜し、文科省を頂点に上意下達の連鎖構造を作ろうとすることによって、こうした大学の「自治共同体」としての本質が完全に破壊されてしまうからです。大学が破壊されたら、未来を切り開く人類の「叡智」はいったいどこから生まれることになるのでしょう。これは日本だけでなく世界的な問題でもありますが、「叡智が世界をつなぐ」と謳う「上智」(Sophia)大学にとっては、とりわけ切迫した問題であるはずです。