第1回

アンドロイドの法人格

 

法学部 法律学科 准教授 大塚智見

 

 アンドロイドは本物の羊を飼うことができるのか、ドラえもんはどら焼きを買うことができるのか、ジェリと結婚することができるのか。これらを法学的な言葉遣いで言い直すと、アンドロイドは、物の所有権者となりうるのか、売買や婚姻の当事者となりうるのか、という問題となる。所有権者、そして契約や婚姻の当事者は、法律上「人」でなければならない。このように、法律上の「人」として権利や義務の主体となる資格のことを「法人格」と呼ぶ。したがって、上記の問題は、アンドロイドに法人格があるのか、と再構成することができる。近い将来、アンドロイドがこの世に現れることを夢想すれば、アンドロイドの法人格という問題は、非常に重要な課題として位置づけられる。

 

 法律上の「人」とは何を指すのか。つまり、法人格はいかなるものに与えられるのか。ゴーストを持っているものに与えられるのではないか、疑似霊素がインストールされただけでは足りないのではないか、などなどいろいろ考えられるところではあるが、まずは現実の民法学の議論を見ておこう。民法は、人々の間の権利や義務の関係を定めるルールである。コンビニでお茶を買う契約から大企業間の売買契約まで、さらに、自動車事故で生じる損害賠償や、婚姻、相続といったものまで、民法の適用範囲は非常に広い。これらの権利義務関係の当事者たる資格が「法人格」である。「法人格」を持つものは、「自然人」と「法人」の2つが存在する。「自然人」は、我々人間であり、生物学上のヒトの個体それぞれが「自然人」である。「法人」は、人や財産の集まりであり、たとえば、株式会社や財団法人がそれである。何が法人にあたるかは、すべて法律によって定められる。アンドロイドを法人とする法律が将来できるかもしれないが、ヒトとアンドロイドを比較するため、以下ではアンドロイドは自然人かという議論に絞って検討していく。

 

 自然人の範囲は、歴史的に拡張してきた。生物学的なヒトがすべて自然人であるという考え方は、実は近代に入ってからのものである。それまでは、ヒトは平等でなく、奴隷は人ではなく、主人の所有する物として扱われていた。ただし、人とは扱われずとも、主人の代理人となる能力や婚姻する能力は認められていた。これは、奴隷の「人」としての側面を無視できなかったのだと考えられている。また、近年、アマミノクロウサギ事件と呼ばれる訴訟において、動物の法人格が問題とされた。これは、奄美大島へのゴルフ場建設をめぐり、環境団体や周辺住民が、開発許可の取消しを求めた裁判である。特徴的なのは、原告がアマミノクロウサギをはじめとした奄美大島に生息する動物とされたことである。このような訴訟に対して、裁判所は、アマミノクロウサギのような動物は原告ではありえないとして、訴状を却下した。これは、裁判所によって、動物は自然人たりえないという判断が示されたものといえる。

 

奴隷は物として扱われたが、人としての側面を無視できないものであった。これに対して動物は、自然人たりえないものと考えられている。どのような違いが法人格の有無を導いているのか。鍵となるのは、「意思」なのではないか。民法において、人は、意思に基づいて権利を得て義務を負う。売買契約を締結するには、買いたいという意思を表示することが必要となり、意思に基づいてした行為が他人の権利を侵害した場合は、不法行為となり損害賠償の責任を負う。それゆえ、意思を持たない者は権利義務の主体となる資格、法人格を持たないことになる。奴隷は、主人の物でありつつも、自らの意思を表明できる点で、「人」の側面を有していた。アマミノクロウサギは、自分で訴訟を提起しようとしたのではなく、環境団体や周辺住民といったヒトがその名前を借りたに過ぎない。このように、意思を持っているかが自然人たり得るかを決める条件となるのではないだろうか。

 

 それでは、アンドロイドの法人格の検討に立ち戻ろう。自然人か否かは「意思」の有無によるとすれば、アンドロイドに意思があるとはどのような状態を言うのかが問題となる。意思とは何か自体多くの議論があるところではあるが、何かを決めること、が意思であると考えてみよう。たとえば、どら焼きを買う契約を結ぼうと決めることが意思である。このとき、契約を締結するかしないか、どちらも選べなければならない。どれだけ高度で複雑なプログラムであっても、前提条件を入れれば必ず一つの選択が導かれるのであれば、それは意思を有しているとは言えない。同じ条件の下で別の選択をする可能性がある場合にはじめて、製作者とは異なる人格として、権利義務の主体になることができるというわけである。

 

 自然人の範囲は、歴史的にみると広がっている。したがって、アンドロイドを自然人とする未来がやってくる可能性もあるだろう。製作者の意思とは離れた意思を持つアンドロイドが開発されることになれば、そのアンドロイドは、法律上の「人」として社会の中で活動するようになるかもしれない。アンドロイドはまだこの世に存在していないので、本稿は試論の域を出ない、というよりももはや暴論であろう。しかし、架空の事例を想定することにより、法学における「人」の意義を再検討することができたのではないか。次回は、別の観点から「人」とは何かにつき考える予定である。