第2回

神学部 神学科 教授 ホアン・アイダル

 

イエズス会の機関誌の一つ “La Civiltà Cattolica” の編集者で、イエズス会士のアントニオ・スパダロが、今年の二月に「教皇フランシスコの外交—政治的プロセスとしてのいつくしみ」[i]というタイトルの記事を書きました。記事のテーマは、教皇フランシスコの外交の理解です。面白い記事だというだけでなく、今この時に必要な記事だと読んで思いました。

 

「教皇フランシスコは平和主義者ではない」。記事は少し驚かせられるこの言葉から始まります。人と人との間の問題はいつも複雑です。民族と民族の間の問題や不信、テロリズムの問題について考えると、このことがより説得力をもつでしょう。暴力には心理学、経済、哲学など、様々なルーツがあります。暴力を振るう者 —特に暴力を意識的に一つの手段として選んでいる者— の暴力を寛大な態度だけで、やめさせることが可能であると考えるのは、言うまでもなく、ナイーブ過ぎます。「教皇フランシスコは平和主義者ではない」という言葉の意味は恐らくそういう意味でしょう。しかし、暴力だけで暴力の問題を解決しようとすることは、多分もっとナイーブな考え方ですので、「平和主義者ではない」と言いながら教皇はいつくしみの重要性を訴え続けます。

 

ヴァチカンが最近関わった幾つかの国際問題 —キューバ、ベネズエラ、コロンビア、ロシア、パレスティナ— を教皇の外交の具体的な例として挙げながらスパダロさんは「暴力やテロリズムと戦うために、様々な方法があって、すべては必要です。教皇フランシコの方法はいつくしみです」と書いています。暴力の問題はいつくしみだけではなくなりません。しかし、いつくしみなしにもなくなりません。教皇の考え方は平和を達成するためにはいろいろな方法が必要ですが、いつくしみがなければ、どんな方法も無力という考え方だと思います。

 

教皇は暴力について話すとき、机上の空論で話しません。教皇はアルゼンチン時代、ほぼ9年に渡った厳しい内戦とそれに続いたフォークランド紛争を経験しました。イデオロギーにはどれほど人を変える力があって、人をどれほど難しい話し相手にすることを誰にも教えてもらう必要はありません。その厳しい経験を教皇の心に生じさせたのはいつくしみへの信頼だったことは興味深いことです。教皇フランシスコによりますといつくしみは「人に対しても、国やグループに対しても絶望しない」ことです。また、いつくしみまた、創造的な力だと言います。いつくしみは憎しみや不信が見えない道を見出すことができます。「地下室の手記」でドストエフスキーが使う表現を借りながら、教皇は「人間関係にとっては2+2=5」と言います。私だけ持つ印象ではないと思いますが、現代、特に国際政治の世界では、いつくしみが絶滅危惧種の一つです。

 

教皇がアルゼンチンでのイエズス会の修道院長であった時、オフィスの壁には聖書で「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの絵がかかっていました。アブラハムが手に棒のようなものを持って、象を壊している不思議な絵でした。調べたところ、その絵が表すストーリーはユダヤ教の伝統に属す、タルムードという本のなかにあるストーリーです。「アブラハムの父は偶像の彫刻家だった。だから、アブラハムは金槌を取って父のものであった偶像を全て叩き壊しました。しかし、その中の一体だけを残しておいて、その偶像に金槌を持たせておきました。やがて父のテラがそれに気づいて『誰がこの神々をみな殺したのだ』と言いました。アブラハムが『あの神がやったのです。金槌を持っているあの神が』と言うと、『そんなわけがない!あれはただの石の欠片に過ぎない命も持たず、その中に息も無いではないか!偶像は偶像を壊すことはできない』と言いました。そこでアブラハムは言ったのです、『その通りです、お父さん。偶像は偶像を壊すことはできません』。」

 

偶像は偶像を壊すことはできない。同じように力は力を、金は金を、憎しみは憎しみを壊すことはできません。我々の世界は厳しい経験と深い祈りから生まれたこの知恵に、1日もう早く耳を傾ける必要がある気がします。

 

 


[i]Antonio Spadaro,“La diplomazia di Francesco. La misericordia come processo politico”, “La Civiltà cattolica”,3, 975,2016.