第3回

他者の不幸と他者の責任

 

神学部 神学科 教授 ホアン・アイダル

 

聖書には非常に大切な教えがあります。他者の不幸と他者の罪を一緒にしてはならない、という教えです。新約聖書のヨハネ福音書では、イエスと弟子たちがエルサレムを歩いていて、目が見えない人に出会う場面があります。そこで、弟子たちはイエスに尋ねます。「先生、この人が生れつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。」弟子たちは目が見えない人の不幸は当然その人自身やその両親のせいであると思っていました。しかし、聖書の教えに基づいてイエスは答えます。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」イエスは不幸と罪を分けて、不思議な言葉を加えました。目が見えない人の不幸は「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。

 

他者の不幸と他者の罪とを一緒にする傾向は全ての時代において見られます。現代においてもそうです。難民問題は難民自身や難民が属する国のせいであると考える人は少なくありません。同じような論理はホームレスについても、いじめられている人についてもあります。論理の共通点は「困っている人の問題の原因はその人自身にある。」ということです。私は豊かではない南米のアルゼンチン出身です。たまに貧困について耳にすることがあります。「気候が暑い国の人は暑さのために十分に働けないので、貧しい。」コメントはもはやいらないと思います。

 

差別的な言葉を並べるよりも、この論理の理由について問う必要があります。私たちが苦しんでいる人に出会うときに、その人の不幸をその人の責任にする傾向はどこから生じるのでしょうか。他者の不幸と他者の罪とを一緒に考える理由は、他者の苦しみの責任から逃げるところにあると私は思います。

ユダヤ教の思想家は次のように書いています。被害者に責めを負わせるこのような心理学は、いたるところで見られます。そうすることによって、悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなるように思えるのです。」[1]

 

もし、難民は自分のせいで難民なのであれば、私は心配する必要も、彼らを助ける必要もありません。もし貧しい人やホームレスが働きたくないという理由で困っているなら、そして、もし問題のある人だけがいじめの対象になっているなら、「悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなる」ので、私は安心して寝ることができます。

 

しかし、世界はそんなに単純で合理的な場所でしょうか。他者の心はそんなに分かりやすいものでしょうか。私が不幸な人と出会うとき、唯一明確な事実は、その人は私より苦しんでいる、ということだけです。私は他者の不幸の理由を知ることはできません。そして、その理由を想像する権利もありません。

 

私たちが他者の苦しみと「ありのまま」、説明なしに向き合う時、その苦しみは無視できないものになります。むしろ、無視できない命令になるといった方がいいかもしれません。他者は貧しいけれども、私は貧しくない。他者には住むところはないけれど、私にはある。他者はいじめられているけれど、私はいじめられていない。これだけが事実。何もせずにいられない、耐えられない事実になります。聖書の言葉を借りれば、他者の不幸を他者の罪と切り離す時、「神のみわざ」つまり他者を助けること、世界を変えることが可能になります。

 



[1] なぜ私だけが苦しむのか』H.S.クシュナー。東京:岩波書店、1998.